自分がわからなかった思春期― 愛着の傷と「アイデンティティの不在感」について ―

思春期の私は、ずっと不安定でした。

思春期の私は、ずっと不安定でした。

「自分って何者なの?」

「私は、何のために生まれてきたの?」

答えの出ない問いが、胸の奥にずっと居座っていて、

進路を決めるときも、人間関係の中でも、どこかフワフワと地に足がつかない感覚がありました。

まるで、真っ暗闇を手探りで歩いているような日々

行き先もわからず、足元もおぼつかなくて、どこかに落ちてしまいそうな、そんな不安。

この感覚は、自分では自覚していたけれど、親にも、友人にも、まったく伝わっていなかったように思います。

それがまた、静かな孤独を深めていました。

大人になって、ようやくわかってきたのです。
あの不安定さの正体は、「自分という軸」がなかったから。

そしてその背景には、愛着の傷があったのだと。

「自分がわからない」感覚の正体

「自分が何者かわからない」というのは、自己探求の入り口というより、もっと根源的な“空虚感”です。

・何をしたいのかわからない
・でも、何もしていないと焦る
・自分の気持ちより、どう思われるかが気になる
・「どっちでもいいよ」と言ってしまう
・けれど、心はモヤモヤしている

これらは、単なる優柔不断ではなく、「自己感覚の未形成」によるもの。

土台がないから、人生の選択肢に「自分の意志」が反映されないのです。

自己感覚は、関係性の中で育つもの

人は、自分ひとりで「私はこういう人間です」と確信できるものではありません。

本来は、誰かとの関わりの中で、少しずつ“自分”を知っていきます。

・泣いたときに受け止めてもらえる
・喜んだときに一緒に喜んでもらえる
・怖かった気持ちに「怖かったね」と寄り添ってもらえる

こういった経験が積み重なって、
「私はこう感じる人なんだ」
「私は、いてもいい存在なんだ」という“自己の輪郭”が育ちます。

でもそれがうまく育たなかったとしたら――
思春期になって「自分を生きる」ことが、すごく困難になるのは当然なのです。

わからなかったのは、あなたのせいじゃない

選べない。決められない。迷ってばかり。
そんな自分を責めていたけれど、
それは「選ぶための軸」が育たなかっただけ。

誰のせいでもない。
あなたのせいでもない。

ただ、当時の環境では育ちきらなかっただけ。
そしてそれを、今からでも取り戻すことはできるのです。

癒しとは、「自分とつながり直す」こと

愛着の傷を癒すというのは、過去を掘り返して責めることではありません。

“いまの自分”が、本当の自分と出会いなおすこと

・自分の気持ちに耳を澄ませる
・心地よさに身をゆだねてみる
・誰かと安全につながる体験を積み重ねる

それが、ずっと曖昧だった“私”を、少しずつ輪郭ある存在へと育ててくれます。

おわりに

「自分って何者なんだろう」
そんな問いの中で、ずっと手探りで歩いてきたあの頃の私に、今ならこう伝えたい。

わからなかったのは、
あなたが悪いからじゃない。

まだ出会えていなかっただけ。
これから、何度でも出会いなおせるよ。
自分と、人生と、本当の安心と。

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